第二章 ~黎明~
由紀の見舞いから東京へ戻るバスの中で、裕二は流れる街灯の明滅を眺めながらこれからの事をずっと考えていた。
由紀が入院して何日か経った後、担当医から由紀は脳梗塞であることを告げられ、介護が必要になるとの旨を伝えられた。
由紀は意識はあるものの、半身麻痺となり、言語障害と嚥下障害が残るという事だった。
簡単に言えば寝たきりだ。
自宅での介助はかなり困難なこと、それに伴う費用はかなりのものだということも告げられた。介護認定の事が記された数枚の資料とともに、いくつかの介護施設のパンフレットを受付で渡された。
実家に戻る車では、茂と龍一と三人でこれからの事を話した。
兄は妻帯者となっていたが、婿養子として義姉の家にお世話になっていたため、どうやっても由紀の世話をすることは難しかった。
兄が丸山家を出てからは実質由紀と茂の二人暮らしだった。
今までの茂の事を考えると、どうしても茂だけに介護を任せるのは無理だと思った。
ましてや、茂の体たらくのせいで家賃を払って生家に住み続けるという奇妙な状況の中で、どうやったら満足な介護ができるのだろうと簡単に察しがついた。
当然のことながら生命保険にも加入しておらず、介護認定を受けたとしても金銭的な困窮は目に見えていた。
兄弟は殆ど思案することなく介護施設に由紀を入居させ、資金を全員で捻出しようという考えに至ったが、茂は断固としてそれを拒んだ。
冷静に考えろ。と何度も進言したが、金も無いし施設には入れずに自宅で俺が面倒をみる、と頑なに言い張った。
進展の無い話し合いに、龍一が帳を引いた。
「今は冷静に考えられないかもしれないから、もう少しじっくりと考えて決めよう」
裕二はその判断は正しいと思い、いつもの日常の中で最適解を探そうと考えた。
バスが新宿に着いて間もなく、バンドメンバーの陽平から少し慌てた様子で電話がかかってきた。
「事務所から連絡が来たんだよ!」
陽平がやっていたサクラのバイトの関係で、よからぬ人達とひと悶着起こしたのかな?と裕二は訝しんだが、どうやら違ったようだった。
「レコード会社だよ!俺たちが音源を送った事務所から連絡が来たんだ」
バスを降りたその足で、大きな荷物を抱えたままの裕二は緊急バンド会議に召集された。
打ち上げでよく使う安さで有名なフランチャイズの居酒屋に、歓天喜地のメンバーが次々と集まった。
中でも、バンマスであり広報担当だった陽平が興奮冷めやらぬ様子でことの経緯をメンバーに伝えた。
送られた音源を聴いたこと、それなりに集客もあるみたいだし、ライブの評判もいいこと、一度直接ライブを観てみたいので、近々関係者何人かでライブを観に来ること、その結果が良ければ正式に今後のことについて話したいということ。
裕二の所属する「LAST YELL」は、メンバーが住む吉祥寺周辺ではそれなりに知名度があった。
メンバーはみんなバンドが優先の生活で、尊敬できる仲間だった。
裕二が上京して出会ったメンバーは全員が地方出身者であり、裕二と同じようにバンドでの大成を夢見て上京していたので、歳を重ねるにつれて出てくる悩みも同じようなことばかりだった。
新譜をリリースすれば、年間100本近いライブツアーをこなし、全国にもちらほら友達やファンもできた。
そのため、就職などは二の次で、とにかくバンドでのし上がるために必死だった。
それでも、時折垣間見える葛藤のようなものはメンバー全員感じていた。
みんな一緒だった。
「とにかく、これが最後のチャンスかも知れない。レコード会社の人達が観に来るライブだけは絶対にヘマできないな」
最後。という言葉は、恐らく自然に出たものだった。
縁起でもないことを言うな。とは、誰も言わなかった。
多分メンバーそれぞれ、薄々と感じながらバンドをしていたはずだ。少なくともここ最近は。
半分決起集会のようなものになったが、まだデビューが決まったわけでもないので、勇み足で乾杯をするのもおかしいということになり、なんだか煮え切らない感じで緊急バンド会議は終わった。
居酒屋を出て、裕二は自分のアパートの近所に住む竜也と帰路を共にした。
少し酔いの回った裕二は、なんだかよく分からないモヤモヤとした気持ちを咀嚼できないまま自宅方面へと歩きだした。
「おふくろさん、大丈夫なのか?」
メンバーの中でも一番冷静な竜也が、裕二の心情を見透かしたような口ぶりで訪ねた。
「ああ、脳卒中で、左半分麻痺になっちまうんだって。介護が必要なんだって」
「そうか、、、。で、どうするの?」
竜也にはきっと悟られていると思った。
「うーん、正直突然のことだからさ、この先のことなんてすぐに決められないよ。一応、親父や兄貴とは、もう少し落ち着いて考えようって話はしてきたけど」
「親父さんだけじゃキツいんじゃないのか?」
裕二は、竜也にだけは家族の話をしていた。どんな時でも冷静でいる竜也は、ただのバンドメンバーというだけではなく、一人の信用できる人間として心を許していたからだ。
「普通に考えたら、お袋を施設に入居させて家族みんなで費用を折半するか、俺が田舎に帰ってお袋と親父と暮らすのが自然だと思うんだけど。でもさ、これってチャンスじゃん。長いことバンドやってきてさ、やっと日の目を見ることが出来るかも知れない。俺にとってはバンドだって本当に大事だし、今すぐに田舎に帰ることなんてできる気がしない」
裕二の本音はそうだった。この晴天の霹靂も両手放しで喜べるような心情ではなかった。
「まあ、俺も実家に両親を置いてきた身だし、いつかはそういう時が来るだろうなって思ってるだけだけどね。バンドも家族も両立できないからな、今の現状だと」
無言で足元を見つめながら歩く裕二に向かって竜也は続けた。
「人生にはさ、時としてこういう取捨選択が非情に訪れるんだよね。でもさ、全部が全部自分の時間なんだよ。誰かが決めるもんじゃねえ、自分で決める。俺たちは選ばされて生きてるんじゃないんだよな、自分から選んで生きてるんだ。だから全部自分の責任だし、何が起きても他人のせいじゃない。」
読書が趣味の竜也は会話の半分が啓発的だった。少なくとも裕二と二人で対峙している時は。
チラチラと由紀の顔が頭に浮かんだ。由紀の口癖は
『いつもニコニコ、笑顔でソワカ』
だった。
どこの宗教で覚えてきたかは知らないが、とにかくいつも笑顔で後悔の無いように生きよ。のような注釈の入ったメモ書きを冷蔵庫に貼り付けてあった。
「まあ、どういう判断でも、俺はお前の決断を受け入れるよ。しっかり考えて、後悔しないようにしろよ」
裕二は竜也に出会えたことを心から嬉しく思った。
いつも通りの日常を続けながら、裕二はこれからの事を考え続けた。
はっきりとした答えは導き出すことが出来なかったが、何も考えずに没頭できるバンドだけは手放したくない気持ちが大きかった。
いつものように深夜までのアルバイトを終え、東京では珍しい雪が降る中をトボトボと歩いた。
ふと携帯電話を見ると、龍一から何度か着信があることに気がついた。
「一時間前か、、、」
龍一がこんな時間に何度も電話をしてきているのが不自然だったため、裕二は嫌な予感がした。
本当は折り返しの電話なんてしたくないと思ったが、不吉な想いを噛み殺して龍一に電話をかけた。
長めのコールの後、龍一が電話越しに出た。
「お袋の病状がだいぶ悪いみたいだ。すぐに帰って来いとは言わないが、これからのことを真剣に考えてくれ」
想像していた最悪の事態は免れ、裕二は少し安堵した。
「お袋はどんな感じなの?」
「もしかしたら、もう話せなくなる可能性もあるそうだ」
「そうなのか、、、」
「あとな」
龍一は口上を続けた。
「裕二には言ってなかったけど、見舞いに行った時におふくろの状態が落ち着いてる時、少しだけ会話ができる時があったんだよ。でさ、昨日も見舞いに行った時におふくろに言われたんだ。『裕二に帰ってくるなと伝えてくれ』ってさ。どうしようと思ったけど、ちゃんと裕二には伝えようと思って」
その後、ひとことふたこと龍一と会話をして電話を切ったが、その会話の内容は覚えていなかった。
立ちすくんだ裕二に向かい、空からしんしんと雪が降り続いていた。
答えを空に仰いだが、答えは降っては来なかった。
その数日後、レコード会社の関係者が裕二たちのライブを観に来た。
本拠地としていたライブハウスでのライブということもあり、噂を聞きつけたファンやバンドマンの友達がこぞって駆けつけた。動員は過去最高だった。
ライブは自分たちでも納得するほど完成度も高く、自他ともに認めるパフォーマンスだった。
「素晴らしいライブでした。このあと予定が無ければどこかで打ち上げも兼ねて今後の事を話しませんか?」
関係者のうちの一人がライブを終えた裕二達に話しかけてきた。
「もちろんです!お願いします!」
バンドの指針を任されている陽平が少し緊張気味に応えた。
いつもの居酒屋だった。
正式に契約を交わしたいとの旨を関係者から伝えられた。
とうとうデビューできる。
裕二は震えた。いや、きっとメンバー全員が震えていただろう。
メンバー全員が嬉しそうで、裕二は胸が熱くなった。
バンマスの陽平は泣いていた。
竜也はいつもと同じように冷静に見えた。
少しだけ、裕二を気にしているような気もした。
その後打ち上げは朝まで続いた。
打ち上げを終え、関係者に深々と頭を下げると、メンバーは散り散りに帰路に着いた。
竜也は付き合っていた彼女の家に行かないといけないとのことで、アパートまでは一人で帰ることになった。
だいぶ酒を食らったが、裕二の意識はしっかりしていた。
嬉しいはずなのになぜか悲喜交々の自分の感情が理解できなかった。
おもむろにジーンズのポケットから最後の煙草を取り出し、火を点けた。
ふと見上げると、空が白白と明るくなっていた。
裕二は年末に届いた由紀からの手紙を思い出していた。
健気に綴られた手紙の内容を思い出すと、自然と涙が溢れた。
裕二は歩みを止めると、その場に泣き崩れた。
人生は時として皮肉なほど残酷な選択を突きつけてくる。
その儚さに、裕二は体を引き裂かれるようだった。
「いつもニコニコ、笑顔でソワカ」
目の前に由紀がいる気がした。
裕二は子供の頃によく見た田舎の山々の黎明を思い出した。
翌日、裕二はメンバー全員にバンドを辞めて田舎に帰ることを伝えた。
【次章】