第三章 ~肖像~
「これからどうするんだ?」
助手席で車窓の外をボーッと眺めている裕二に向かって、龍一が神妙な面持ちで裕二に尋ねた。
「どうするもこうするも、もう東京には戻れないからな」
龍一のデリカが生家の玄関先に停まり、二人は軽く挨拶を交わして別れた。
玄関を開けると、もうじき梅の花も咲くというのに、だいぶ古くなった裕二の自宅はひんやりとしていた。
買ってきた果物をおもむろに取り出すと、由紀の遺影の前に供え、りんを鳴らした。
由紀は一年の自宅介護ののち、肺炎をこじらしてこの世を去った。三月だというのにまだ残雪の残る寒い日のことだった。
結局、由紀は施設には入居させず、茂がほとんどの面倒を看た。
茂が頑なに入居させるのをが拒んだからからだった。口癖はいつも「お金が無い」だった。
裕二はそんな父を心から軽蔑した。
由紀が居なくなって一ヶ月ほど、裕二は自宅での暮らしに戸惑いを感じていた。
長年自宅を離れていた裕二にとって、家族との距離感がよくわからなかったためだ。
由紀がいなくなるまでは、その存在があったからこそ茂との会話もかろうじて取れていたが、葬儀も終わり、日常が取り戻されていくと、茂との会話は顕著に減っていった。
裕二はバンド時代、食費を少しでも浮かすために飲食店でアルバイトすることが多かった。その経験を活かして地元の飲食店に勤務していたため、バンド時代と同じく食事に困らない状態だった。
帰郷した際にも、「俺のことは色々自分でやるから」とだけ茂と口約束を交わしたため、日常生活の殆どはそれぞれでこなしていた。
由紀が病で倒れたあと、父は割と時間の融通の利くアルバイトを続けながら看病していたが、年金と介護保険を利用するも、どうやっても金銭的な困窮は免れなかったため、兄弟で相談して一定額を茂に渡した。
由紀の介護は茂の部屋で行われた。清拭からおむつ替えまで、その殆どを茂がやっていた。
というより、裕二にはあまりやらせようとしていなかった。
「繋がり」の良い日は裕二ともいくらか会話をしたが、結局倒れて以来は殆ど寝たきりで死ぬまで過ごした。
時折、
「裕二、なんでここにいるの?」
「あなたは誰?」
などと錯乱しているときもあった。
はじめのうちは、胸を劈かれるような気持ちになったが、慣れるとなんとも思わなくなった。
自宅での介護を始めて最初の夏、茂が留守にしている時に由紀と小一時間話せる日があった。
裕二が帰郷して自分の介護をしてくれているということに、バツの悪そうな顔をしながら由紀は話してくれた。
「こんなことになってごめんね。本当はもっと裕二には好きなことをやっていて欲しかったんだけどね」
目頭が熱くなりながらも裕二はなんとか堪えた。
「お父さんはね、ああいう性格だから、きっと誤解も多いの。裕二が生まれる前からずっとそうだった。不器用な人なのよ」
そんなことは分かっていた。それを分かっている上で、由紀は離れていかないことも知っていたから不思議だったのだ。
「いつか親父がお袋を怪我させた時があるじゃん。あの時俺たちはあんなに離婚を勧めたのに、どうしてそうしなかったかずっと疑問だったんだ」
少し呼吸を整えると、由紀は答えた。
「お母さんも、そういうお父さんを知っているし、それがあったからといって離婚する理由にはならないわ。だってあれは、愛が無いから怪我をさせたわけじゃないのは分かっていたから。良い時もあれば、悪い時もある。それだけよ」
なんだかよく理解できないが、病床で何か達観したような面持ちの由紀の言葉には言い表しようの無い説得力が内包されていた。
「それに」
裕二の方を向いて由紀は続けた。
「あの時離婚していたらきっと、今こうやって裕二と話すことは出来なかったわ」
由紀の話すそれは、愛なのかなんなのかは分からなかったが、なんとなくぼんやりと、雲を掴むような思いがした。
「お父さんはね、きっとお金が無いからお母さんを施設に入れないわけじゃないのよ」
裕二がここまではっきりと由紀と会話したのはその時が最後だった。
その年の秋頃から次第に繋がりが悪くなり、冬には裕二の事を自分の父親だと思っていたようだった。
由紀の四十九日法要が終わるころ、竜也から電話があった。
バンドを辞めて帰郷したあとも竜也とだけはちょくちょく連絡を取り合っていたが、夏くらいからは連絡が途絶えていた。
口ぶりから察するに純粋に裕二の近況が知りたい様子だった。
「そっちはどう?」
「春におふくろが亡くなったんだけど、やっと色々が落ち着いたよ。そっちは?」
「そうだったのか。あのあと違うギターを入れてしばらく活動してたけど、秋くらいに解散しちまったんだ。やっぱりどこの馬の骨かも分かんないようなやつとバンドやっても楽しくなくなってさ」
「そうか、、、。なんていうか、、、色々すまなかったな」
裕二はその刹那で色々と想いを巡らせたが、その言葉しか出てこなかった。
「まあ、お前が決めたことだし、俺たちは受け入れるだけだよ。結局、残る物しか残らないのが世の常だ」
いつだって竜也は冷静だ。
「結局おふくろも死んじまって、こっちに帰ってきた意味もよく分からなくなっちまった。親父とも全然会話も無いしな」
「そうか、、、。でも」
竜也はそう言うと少し咳払いをして続けた。
「お前が選んだ生き方だ。その線上に今があるだけだ。お前は、今を、、、。今を選んでるんだよ」
裕二は由紀の事を思い出した。
「あの時離婚していたらきっと、今こうやって裕二と話すことは出来なかったわ」
世界は総和なのだと思った。
良いことも、悪いことも、全部が自分の人生という名の一本の線の上で起伏を繰り返して、それが他者と複雑に絡み合いながら成立している。
今生きていることさえ、誰かの何かになっているのかもしれないし、こうして竜也に励まされる事も、バンドをやっていなかったら起こり得なかったことだ。
何かは何かに繋がって、その意味さえも分からないまま死んでいくこともあるのだろう。
そう思うと、人生はなんと儚く、そして繊細なのだろうか。
「父ちゃん、大事にしてやれよ」
裕二が想いを巡らせていると、竜也はそう言い残し電話を切った。
裕二と茂は奇妙な空気に包まれながら一緒に暮らした。
茂はパートの口を見つけ、日中の6時間くらいは働きに出た。何をやっていたかは分からないが、以前シルバーの人材派遣募集の広告の切り抜きが台所のテーブルの上に置いてあったので恐らくはそこに行っていると見当をつけた。
裕二の仕事が夜遅いため、殆ど顔を合わせない日もあった。
たまに裕二が深夜帰宅すると、台所に「裕二」とメモ書きを添えた野菜炒めのようなものがあった。裕二は無理をして食べたが、本当は味も濃くて不味かった。
茂の部屋には足を踏み入れることさえ許されなかった。
ある日、裕二は思い立ち母の遺した衣類や荷物を整理しようと思い茂に提言したが、あっさり断られてしまった。
ならばと茂の居ない時を見計らって部屋に入ってみたものの、由紀の荷物が入っているであろう押し入れの外側に「開けるな」と大きく走り書きが貼られていたため、なんだか開けるのも気が引けたので諦めた。
ベッドの脇にはまだ若い頃の由紀の写真が一枚だけ写真立てに飾られていた。
夏が過ぎた頃、その日仕事が休みだった裕二は付き合って一年ほどになる彼女の穂奈美を連れて帰宅した。
由紀の介護真っ只中の裕二を心配した旧友が紹介してくれた気立ての良い穂奈美は、裕二のこれまでの人生を理解し、由紀の看病のことや父との確執のことも全て分かった上で裕二に寄り添った。
新しい命をそのお腹に宿した事を知った二人は、一緒になりたいこと、そして子供が出来たことを茂に全て話したが、茂は言葉少なに「まあ頑張れや」というようなことを言ったきりで、たいした会話もないまま初めての顔合わせは終わった。
穂奈美を自宅まで送ったあと、裕二は帰宅してすぐに茂に言い寄った。
「親父。なんなんだよあの態度は」
裕二のいきり立った目を一瞥しながら茂は言った。
「結婚式はどうするんだ?金はあるのか?向こうの親には言ったのか?俺は金は無いぞ。お母さんの看病で全部使っちまったからな」
「もともと親父になんて期待してねえよ。そもそもお袋の介護の金だって親父だけじゃ払いきれないからって俺と兄貴も出してるんだからな」
裕二は今まで溜まっていた何かを吐き出したくて仕方なかった。
「今までもそうだ。親父の体たらくのせいでおふくろを施設にも入れられなかったんだ。俺が子供の頃からずっと、親父はいつもそうだったよな。仕事もしないでフラフラしやがって、おふくろがどれだけ苦労してきたのか分かってんのかよ」
茂は無言だった。
裕二はその後も感情をこれでもかというくらい吐き出すと、ドタドタと音をたてて自室に戻った。
その日の深夜、切らした煙草を買いにコンビニに出かけようとした裕二は、居間の仏壇の前に座り、机に向かって何かしている茂を見た。
時折、仏壇の方を振り返ったりしながら、何かノートに書いているようだった。
それから更に二人の距離は広がったまま、殆ど口も聞かない日々が続いた。
茂が亡くなったのはそれから二ヶ月ほど過ぎた木枯らしの吹く寒い日だった。
【次章】