紗季はバスを待っていた。
高志が長野に来るときのバスはいつも決まって最終便だった。 田舎のバス停には今夜も自分以外誰もいないのだ、と紗季は思った。
4月に入ったとはいえ、長野の夜はまだ寒い。 事故渋滞のせいでバスが遅れていることを、先刻インターネットで知った。 季節外れのダウンジャケットを着てきて良かったな、と紗季は安堵しつつ、バス停の横にある梅の木に咲いた小さな花弁を目で一つ一つ数えて追った。
予定より20分ほど遅れて、遠くの方からバスのヘッドライトが近づいて来るのが見えた。
紗季は鼓動が早まるのを感じた。
「春が来たら結婚しよう」
高志からそう告げられたのは、二人が遠距離恋愛を始めて三年が過ぎようとした年末差し迫る雪の日の夜だった。
誰も居ないバス停で、帰京を見送る紗季のかじかむ手を痛いくらいに握りしめながら高志はプロポーズをした。
あの時握られた手と胸の中の火照りを、以来紗季は忘れた日は無かった。
高志の言う「春」というのは、即ち紗季の誕生日を意味する事でもあった。 4月1日が誕生日の紗季の名前の由来は「春になり花が咲き誇るところから取った」と、両親から聞かされたことがあり、毎年4月が近づくと、「今年の春は何があるのかなー」 などと冗談混じりで二人でよく笑いあった。
高志と紗季は東京にある大学で知り合い、暫くの友達期間を経て交際を始めた。 卒業まで交際を続けた二人だったが、高志はそのまま東京の広告代理店に就職し、紗季は実家のある長野県に戻り、父が経営する地元でも有名な食品会社の事務として就職をした。 同じ場所で生活をしていくことも考えたが、人間として成熟してから先の事を考えろ、少なくとも三年は頑張ってみろ、との紗季の父親の進言もあり遠距離恋愛を選択したのだった。
幸い二人の仕事は週末が休みだったので、月に一、二度はお互いがバスで行き来した。遠距離恋愛はうまくいかないことが多い、と学生時代に周りからよく聞いていたので、離れて暮らし出した頃は殆ど毎日電話をしてお互いの気持ちを確かめあっていた。だが、一年くらいすると互いの生活環境も変わり、一端の安心感を感じていた二人は毎日連絡をとることはしなくなった。とはいえ、それはとても自然な流れであり、互いが信じ合うからこそという礎が形成されていたため、二人の交際はより深まっていた。
遠距離恋愛を始めて二回目冬のこと、高志の勤める会社の事業展開により長野に支社が出来ることが決まった。そしてその際希望転勤が出来ることを、高志が長野にいる彼女と遠距離恋愛をしていることを知っている上司から告げられた。
だが高志はその話を紗季には伝えなかった。 その時高志は仕事で大きなプロジェクトの一員として奔走していた。そしてそのプロジェクトの成功は、今後の自分の地位を確かなものにするだろうという実感があった。 勿論、紗季の事を愛しているから早く長野に行きたい気持ちもあったが、今仕事で実績を残せば紗季と一緒になったあとももっと有意義な暮らしになるだろうという思惑があったのだ。
時を同じくして、紗季から今後の事をどうするかと、高志に打ち明けた事があった。 将来を考えるなら、遠距離恋愛を続ける事はあまり意味を感じなくなってきていたし、紗季の旧友が近く結婚するという話を聞いたからだった。
「今の仕事が落ち着いたらまた話そう。ちょうど三年経つくらいになるから」
高志はそう答えた 。
人として成熟するためには何故三年なのか、紗季は父にその理由も聞いていなかったが、焦ることもないか、と、自分に言い聞かせたのだった。
それからまたいつもの通り、遠距離恋愛は続いた。 何事もなく、当たり前のように。
待っていたバスが紗季の目の前で止まった。 思わず立ち上がってしまった。
乾いた排気音とともに折りたたみ式のドアが開いた。 革靴が車内の床を擦れる音が響き、数人が下車した。
高志の姿はその中に無かった。
高志がいないことは紗季も知っていた。
プロポーズを受けたあの日、高志の乗ったバスは東京に向かう途中高速道路で事故を起こし、数人の乗客とともに高志は亡くなってしまったのだった。
高志が乗ってくるはずだったバスは、彼を降ろす事もなく、再びゆっくりと闇の中へ走り去っていった。
何かが変わるわけではない。ただ、紗季は待ちたかった。それで全て終わる気がしたから。
あの時、違った決断をしていたら。
もっと自分の気持ちに素直に従っていれば。
そう思わない日は一日もない。 ただ、きっと正解もないのだろう。
涙はとうに枯れ果てていた。
いつか高志に勧められたナポレオンの伝記で読んだことがある。
「人は生きたいと思わなければならない。そして死ぬことを知らねばならない」
紗季は思った。 失うことは、得ることでもあるのだ、と。
何時間、バス停のベンチに座って、春の夜空に想い出を仰いだだろうか。
ある決意を胸に紗季がベンチから腰を上げると、遠く山の稜線がうっすらと明るくなりだしていた。