携帯短編小説 【逡巡】

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三階西病棟にあるラウンジからテラスに出ると、頬を撫でる風に9月の匂いが混じっていた。

ここのところ、淳は日が沈む時間になると、そこから見える狭い空を眺めた。夕方ともなると流石に肌寒さを感じたが、あの日からまるで生気を失ってしまっている淳にとっては、かえってそのほうがありがたかった。ぼんやりと熱を帯びたような頭の中を、少しでも冷ましたかったからだ。

何日か前に医者から告げられた言葉が、淳の頭の中をリフレインしている。

「悪性リンパ種に罹患しています」

霹靂だった。人の良さそうな主治医だったが、その言葉を耳にした時から、彼から発せられる言葉が鋭い牙を剥くようで、その発言の全てを受け入れられずにいた。彼曰く、病のレベルを示す「ステージ」は4という最も良くない状態だという。予後も良くない、早期治療が必要らしい。 淳は目の前に突きつけられた現実を咀嚼出来ぬまま、今こうして初秋の風に人の命の儚さを問いかけている。

テラスのベンチには、松葉杖を傍らに置いた初老の男性が今日も座っていた。淳は軽い会釈をし、彼とちょうど対面になるベンチに腰を下ろした。

「最近毎日ですね、どこが悪いのですか?」

突然投げかけられた問いに少し戸惑ったが、淳は冷静を装い答えた。

「ガンです。あまり良くないのです」

「それは大変ですねぇ、まだお若いのに」

初老の男性の声は、穏やかさと労りが混じったような優しい声だった。淳は不思議と心の氷が溶け出すような温かささえ感じられた。初老の男性は独特の間を置き、言葉を続けた。

「私は先日、余命宣告を受けたばかりです。最初はその事実を受け入れられずにいましたが、何年か前に亡くした妻に会いたい気持ちと、生きる期限を決められた途端、一秒でも時間が惜しい気持ちが心の平穏をもたらしてくれました。現実を受け入れる事で、未来を作ろうと思いました。」
辛辣であろう内容の話なのに、不思議と軽やかなリズムで話す初老の男性の周りには、達観した何かが溢れているようだった。

「自分の位置を知ると、案外世界は拡がるものですよ」

ベンチ横の花壇に咲く花をぼんやりと見つめる淳に向かって、初老の男性はそう言い残し、おぼつかない足取りでテラスを後にした。

人間はいつもそうなのかもしれない、と淳は思った。

生きる事に慣れる事で、その尊さや、自分の立ち位置さえ見失う。当たり前のように朝起きて、当たり前のように目を瞑る。それが続くものだと信じ切っている。言わば不感症だ。そして、都合の悪いことが起これば他の何かのせいにして、何故自分ばかりと嘆く。

初秋の風に乗って、淳の心にようやく生気が運ばれた。モノクロだったその狭い空に、色彩が戻った気がした。

今の自分がするべきことをしよう、そう胸の中で呟いた淳は、数日前から癌と闘かう妻の病室へと踵を返した。

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